デザイナーアーカイブ[家具について]

Nanna Ditzel(ナンナ・ディッツェル)

Nanna Ditzel (ナンナ・ディッツェル)

1923-2005

ナンナ・ディッツェルはスカンジナビア国際家具見本市にて「デンマーク初の女性家具デザイナー」と近年呼ばれるようになった。その肩書きは彼女の家具、テキスタイルそしてジュエリーデザインの長きに渡るキャリアの賜物であります。彼女はコペンハーゲンで生まれ、リチャーズスクールで家具の製作を学び、卒業後コペンハーゲン芸術工芸学校そして王立美術アカデミーで学び1946年に卒業しました。コペンハーゲンでキャビネットメーカーズギルドが1927年から68年まで毎年展示会を行っており、デザイナーと家具職人がプロとして連携し共同制作した作品を展示していました。ディッツェルは学生の時分からこうした展示会に作品を発表していました。彼女は最初の夫イェルゲン・ディッツェルと1943年に学校で出会います。2人は1944年には一緒に作品を作ったり、展示会に出品したりしていました。彼女は家具製造を、彼は布張りを身に着けていたので、デザインの美的感覚も協力し合って快適で、使いやすく、そして気取らない作品をつくりました。2人は45年の展示会にて銀賞受賞もしています。

卒業後2人は事務所を構えキャリアの前半部を一緒に過ごし、デンマークの多くのデザイナーがしたように、小さなアパートでも適切に収まるような拡張性、分割性、2つ以上の利用目的がある家具を作ろうとしていました。そのなかから発明された2つの作品のうち1つはティーテーブルで上がはずれてトレイになるもので、2つ目は1951年のベッドで、スペースを節約するために先のほうがすぼまっているものでした。1949年ディッツェルは機能的で、より装飾的で曲線的な「2シートソファ」をデザインしました。1951年にはラウンジ用長椅子をクヌートウィラドセン社(Knud Willadsen)向けに作りました。ディッツェルの1957年の心地よい「ハンギングチェア(Hanging chair)」は天井からつるされる籐で作られた最も有名な作品となりました。彼らは1950年代のレイヴンホルム社(Ravnholm factory)向けにエナメルのキッチン用品もデザインしました。そしてディッツェルは1950年にジュエリーのシリーズを製作し金細工職人協議会から賞を受賞しました。56年にはルニング賞も受賞。ジュエリーのデザインでは後にジョージ・ジェンセンともコラボレーションすることになります。

1952年、2人は子供用の家具を展示しました。ねじや蝶番を使用したところにはレースや皮製の蓋を使用しました。ディッツェルには子供が数人おり、彼らのための小さな家具のデザインに対するユニークなセンスがあったようです。彼らは機能的なデザインはすべての年代に利益をもたらすと信じており、ベッドも昼間はソファとして使えることで子供たちの自由空間の利用度がもっと高くなりました。イェルゲンの突然の死の翌年の1962年, ディッツェルは「トッドスツール(Toadstool)」というスタッキング可能なスツールとしても子供用のテーブルとしても使える多目的な家具の製作で成功を収めました。

1960年代はグンナル・ブラットヴォルドが運営する雑誌およびクラブであるモビリア(Mobilia )に参加していました。Unika-Voevという後のホーリング-コッホ デザインセンター(Halling-Koch DesignCenter)のために沢山のテキスタイルのシリーズをデザインしたりもしました。そのほかにも彼らはディッツェルと1966年には彼女の代表作である段差フロア用椅子とクッションでショールームをデザインするという契約を結びました。1968年にはカート・ハイドと再婚しロンドンへ移住。彼女の作品であるジュエリーやテキスタイル、そして家具を販売するナンナ・ディッツエル・プロダクションという自身の会社と立ち上げます。事務所とスタジオが入っているインタースペース(Interspace)というインターナショナルデザインのミーティングスペースやショールームの製作に彼女とハイドはとても忙しい日々をすごしました。

もっと最近ではデンマークのワークショップに戻って、軽くて扇型の超有名な「トリニダードチェア(Trinidad chair)」 や、空港の椅子である「テーマ チェア(Tema)」、そして鋳造鉄でできた「シティベンチ(City Bench)」などを彼女は製作していて、すべてフレデリシア社(FredericiaStolefabrik)から製造されています。

閉じる