デザイナーアーカイブ[家具について]

Mies van der Rohe(ミース・ヴァン・デル・ローエ)

Mies van der Rohe(ミース・ヴァン・デル・ローエ)

1886-1969

ドイツ、アーヘン生まれ。家業の石工として鍛えられた彼は、今世紀前半におけるミニマル主義の国際的スタイルのアイコンとなりました。ベルリンの装飾芸術学校にて建築を学んだのち、ブルーノ・パウルのオフィスで1905年から働くようになりました。1908年にはペーター・ベーレンスのオフィスで働き始め、そこで現代主義者の同輩ル・コルビジェやウォルター・グロピウスも一緒でした。そして1914年に独立し、自身のオフィスをベルリンに構えました。

モダニズムの意図やその拡大に一心になっている組織「ノベンバーグループ(Novembergruppe)」のメンバーとなり、1920年代前半このスタイルで建物のデザインをしました。1927年、彼のスチールパイプの椅子のデザインとパテントが彼自身を国際的スポットライトへ運びます。その椅子「MR20」は建築家でデザイナーのリリー・ライヒと共作で作られました。椅子はシンプルにカーブした構造で籐編みの座面に肘掛があるタイプと無いタイプが作られました。この椅子の特徴はミースのほかのデザインの特徴でもある、形式的で手の込んだ快適さでした。1929年彼とライヒはバルセロナ国際博覧会のドイツパビリオンを製作します。パビリオンは鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配したものでモダニズムの空間を実現したものとして建築史上有名です。博覧会終了後一度は解体されますが、尊敬の念をもって後に復建され「ミース・ファン・デル・ローエ記念館」となります。またこのプロジェクトで不朽の名作「バルセロナチェア」が誕生します。ミースのバルセロナチェアはこのパビリオンで行われたスペイン皇室の就任式のために作られたものでした。この作品は権力の象徴と長年されてきたエジプトの折りたたみ椅子とローマ時代の折りたたみスツールから着想されました。バルセロナチェアのカーブした「X」型のベースと、皮のストラップで止められた上質の布張りの座面でもって「現代の王座」を創作したのでした。アメリカではジョージ・ネルソンがこのデザインを強く支持していました。それゆえこの椅子は元々手作業で作られていましたが、その後ノール社により大量生産されるようになりました。

1930年ごろ有名な「ブルーノチェア」がチェコスロウ゛ァキアにあるトゥーゲントハット邸のために作られた「トゥーゲントハットチェア」とともに発表されました。両方の椅子が片持ち梁のデザインを利用していましたが、ブルーノチェアは座面と背もたれの張り布がピンと張られ、スチールパイプバージョンと平鋼バージョンと2つ作られました。トゥーゲントハットチェアはもっと厚い皮が座面と背もたれに張られていました。家自体は壁がオニックス・マーブルやエボニーといった素材でできていて、室内のスペースはたくさんのピクチャーウィンドーやシンプルなパーテションなどで拡張したり、分割したりしていました。ミースはこのモダン主義の建築スタイルを1940年代後半にイリノイのファーンズハウス邸とともにアメリカに持ち込みます。どちらの家も外装と内装の視的調和を取ったり、家が景色の一部になるように窓の壁を作ったりしてデザインされました。

ミースはベルリンのバウハウススクールのディレクターとして1930年から32年まで努めました。1938年にシカゴへ引越し、イリノイ工科大学で建築学を教えました。彼はニューヨークのシーグラムビルディングを建設し(1962-67)、そのガラスとスチールのビルは彼の家具と類似したバランスとしゃれた造型が吹き込まれていました。その後もベルリン国立美術館やヒューストン美術館などを建築。近代主義建築の基本を作った彼の残した「少ないことは豊かなこと(Less is more)」は名言として知られる。

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