デザイナーアーカイブ[家具について]

Harry Bertoia(ハリー・ベルトイア)

Harry Bertoia(ハリー・ベルトイア)

1915-1978

ハリー・ベルトイアは1950年代、ノール社で家具をデザイン。彼の作品が余りに息が長いので、その特許権使用料だけで一生涯彫刻に身を捧げることを可能にできました。イタリアで生まれ、両親と共に1930年にアメリカへ移住し、デトロイトのカス工業高等学校(Cass TechnicalHigh School)を卒業します。奨学金を貰い、1937年にクランブルック美術アカデミーへ入学します。入学時は印刷とデッサンを重点的に学び、作品をニューヨークのギャラリーに売ったりしていました。1939年には校内に金属加工術と宝石のスタジオを設立し、同時にその部門長にもなり1943年まで勤務しました。

クランブルック時代ベルトイアはチャールズ&レイ・イームズといった学友たちと交流し、それが後に複雑な職場関係を作って行きます。ブリジッタ・バレンタインと結婚したベルトイアは、1943年よりイームズのカルフォルニアのスタジオに参加します。彼らは飛行機と医療機器の技術を専門にしたエヴァンス社の戦中プロジェクトに巻き込まれて行きます。ベルトイアは研修マニュアルの作成もしていました。この頃、のちにエヴァンス社に買収されたPlyformed Products社の賛助のおかげで成型合板の研究を始めます。エーロ・サーリネンとともに彼らは成型合板の添え木の作り方を開拓していき、それがのちに家具デザインの方法へと発展していったのです。ベルトイアはスタッフとして残り、いろいろなプロジェクトに携わりました。1946年に退社しますが、それは自分の作品に名前を出してもらえずイームズの影に消されてしまっていたことがその頃の忙しい現場で何度も起きていたためだったといわれています。

1950年代ベルトイアは別のクランブルック時代の のクラスメート、フローレンス・ノールと仕事を始めます。ノールはペンシルバニアにスタジオを保有していて、ベルトイアがデザインするのに自由で協力的な環境を提供していました。彼らのためにスチールメッシュの家具シリーズを製作します。「ダイアモンドチェア(Diamond" chair)」もそのうちの1つで、モダン家具デザインの中でも最も流行したデザインの1つです。作品は彫刻的美意識のもとに製作されており、それらの椅子を「スペースが通り抜ける」のが見えるとベルトイアは言っています。これらの椅子は実に繊細で、骨格だけなので、ノール社の印刷広告で良く見えないことが時々ありました。角度の1つ1つ異なる座面には軽妙な格子処理が施されており、大量生産するに適した機器が見つからなかったためにすべて手作りで作られていました。しかしながらこの椅子がイームズの椅子に似ているために、イームズが著作権所有するワイヤー曲げの技術を誤って著作権表示したという理由でイームズの販売業者であるハーマン・ミラー社がノール社を訴えたのです。結果ハーマン・ミラー社が勝利し、ノール社に椅子の製造ライセンスを贈与しました。しかし、イームズとベルトイアは長きに渡り一緒に働いていたのだから、デザインのひらめきがどちらのものだったかを調べるのは難しく、また突き止める必要も無い様に思われます。

家具デザインをリタイヤした1950年代以降のベルトイアは、ノール社にとどまり1970年代までコンサルタントとして活動した。彼の独自に開発した彫刻技術は、金属で音を鳴らす方法の開発の産物だったのかもしれない。金属を延ばしたり、曲げたりすることで、いろいろな音を出しながら曲げたり、触れたりできるように金属を加工した。その作品でコンサートにも数回演奏し、「Sonambient」というアルバムも作り、彼の芸術で奏でられた楽曲が収録されています。

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