デザイナーアーカイブ[家具について]

Alexander Girard(アレキサンダー・ジラード)

Alexander Girard(アレキサンダー・ジラード)

1907-1993

ミッドセンチュリーのテキスタイルデザイナーで最も有名な人物の中の一人にハーマン・ミラー社のアレキサンダー・ジラードがいます。彼は、ロンドンの王立英国建築家協会で学んだのち、ローマの王立美術大学で学びました。ジラードの生まれはニューヨーク、育ちはイタリアですが、のちに仕事と生活の場をアメリカに戻し、ニューヨークとミシガン、そしてメキシコにオフィスを開きます。モダンライフのスタイルを形作りつつあった斬新な家具たちに合うテキスタイルを当時デザインしていました。その作品たちは金属やカラフルなプラスチックと相性がよく、新しい美的感覚を作り出しており、新しく開店するショールームやインテリア雑貨から注文が多く入ったそうです。ジラードは業界に自由な色の使い方や、気の利いた遊び心を吹き込んだのです。メキシコやインドといった国の手工芸品や民芸品などの製法やテーマそして色使いなど、産業文化に脅かされたことの無い国々に彼はいつも注目していました。アメリカ近代主義的家具と鮮やかに対象をなすであろう色使いやデザインがジラードに創作する意欲を掻き立てたといわれています。

1932年ジラードは初めて建築・インテリアデザインオフィスをニューヨークにオープンさせました。そして1937年にはデトロイトへ移ってショップをオープンさせました。1949年にはデトロイト美術館で「モダンリビングのために」展を企画し、散歩用リーシュやサングラス、眼鏡、シルバー製品に家具といった作品をずらり並べて展示をしました。そのショーについてジラード曰く「その物の代表となる物を世界中から集めました。過去の努力や思想に依存せず、新しい価値を開発するというプライドをみな無意識にもっているのです」。1956年にはニューヨークのタイムライフビルにあるレストラン「ラ・フォンダ・デル・ソル」のために注目すべきインテリアをデザインしました。それはアドービレンガと大きな太陽のモチーフを盛り込んだデザインになっており、1962年のニューヨークのアーキテクチュラル・リーグのコンペで銀メダルを受賞しました。1965年ブラニフ航空のありとあらゆる物のデザインをリニューアルし、それは文具や砂糖のパックといったものにまで及びました。このプロジェクトのために彼は家具の小さなシリーズを創作しました。簡単な構造体にいろいろな種類の座面を当てはめられるもので、ハーマン・ミラー社で一時期販売されていました。

ジラードのプロ生活の主軸となる1952年以降の才能の数々はハーマン・ミラー社での作品に他なりません。ハーマン・ミラー社に設けられたテキスタイル部門の部門長に抜擢された彼は、1956年イームズと共にメキシコで「デイ・オブ・ザ・デッド」という映像作品を作りました。そしてジラードはいくつかのパターンのテキスタイルを作りました。そのどれもが工業生産性にも耐久性にも高く優れたものだったのです。当時、彼のセンスは衝撃的であり刺激的でした。ほとんどのパレットが「華麗なピンクなのかマゼンタなのかといった曖昧さの恐怖を含んでいる」ことを理解したうえで、ジラードはこれらのわずかな違いを彼のデザインに揚々と取り込み、紹介し続けました。

1959年にはミュージックホールと売春宿の跡地を手直しし、サンフランシスコに新しく彼のショールームを開店。1961年にはニューヨークに「テキスタイル&オブジェクトストア(Textiles& Objects)」をオープンしています。ハーマン・ミラー社とのベンチャー事業であったこのストアは、ジラードが世界中を旅して大量に買ってきたものの他に枕やテーブルクロスといった彼のテキスタイルで作った製品、そして他のハーマン・ミラー社のデザイナーが製作した家具を少し販売していました。しかし財政的に失敗。その命が短かったお店は事業というよりはむしろ展示として見られていて、ジラードはそこから多くを経験しました。

一方1953年にはメキシコの民芸文化への興味の高まりと共に、自宅をニューメキシコのサンタフェに移転。自宅の設計も手掛けました。1993年の死後、10万点を超える彼のフォーク・アートコレクションはインターナショナル・フォーク・アート・ミュージアム(MOIFA)に寄付されました。そこから編み出された彼の時代を感じさせないテキスタイルの数々は今も多くの人々に愛されています。

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