デザイナーアーカイブ[家具について]

Poul Henningsen(ポール・へニングセン)

Poul Henningsen(ポール・へニングセン)

1894-1967

デンマーク建築家そしてデザイナーのポール・ヘニングセンは本当の「ランプ製造の達人」でした。オードラップで生まれ。コペンハーゲンのデンマーク技術大学にて建築学を学び「18歳の頃に明かりの実験するようになってから、明かりのハーモニーをずっと探してきた」と語っています。彼はコペンハーゲンで独立系建築家として働き、彼の建築物に調和しない古典的なライトが見つかるたび自身でデザインをしていました。「なんて人々の家は陰気なのだ」と苦悩したことで「電気照明なら明かりがうなるほどあるという可能性が作れる」と考え、モダン照明の進歩が半ば自分の使命だと考えていたようです。

第二次大戦初期、コペンハーゲンのチボリ公園の主任アーキテクトも勤めましたが、ドイツ軍占領時には他の多くの芸術家たちと同様、スウェーデンに亡命し、亡命先のスウェーデンではすぐさまデンマーク人アーティスト・コミュニティーの中心的人物となりました。

1925年にはルイス・ポールセン社とのコラボレーションが始まります。同社との付き合いは長く、1967年に亡くなるまで続きました。ルイス・ポールセン社は今日までも、へニングセンの天才の恩恵を受けています。ヘニングセンの代表作2つといえば「ピーエイチランプ(PH lamp)」と1924年にデザインした 「アーティチョーク(Artichoke)」です。PHランプはパリ世界市での受賞作ということで「パリランプ」とも呼ばれ、電球に触れずともいろいろな方向に明かりを当てることができるようにシェードの層が使われています。「アーティチョーク」も同様の原理で作られていますが、シェードのパネルや層が多くなっています。彼はおなじみの形のテーブル、壁、ハンギングランプを作り、とくに多層シェードの開発とシェードの役割に集中して取り組んでいました。ヘニングセンはガス灯の時代に成長期を向かえており、明るい電気のライトを開発し、全部が柔らかくて落ち着いた品質を提供できるようしようと努めていました。そのために彼は勉強し、標準的な照明のあらゆる特質を改良しました。彼はシェードのすべての要素である場所や大きさに配慮し、照明が過酷な取り扱いをせずとも指向性がなく、部屋を明るさで満たすことができると確信させようとしていました。ヘニングセンは強さレベルの照度の相違を警戒しながら、可能な限りの照明の効果を開発しました。しかもいろいろな照度から照明を消すことができるようにするために、シェードの中の色を変えようと何年も努めました。例えばオパールのようないろいろな種類のガラスをシェードにすることで、照明の効果を広範囲で使用でき、室内のトーンを定めることもできなど。ヘニングセンは国内以外でも研究をしており、1931年にはあらゆる方向に操作できる歯科医向けライトをデザインし、ルイス・ポールセン社の電球を使用して街路照明プロジェクトを作成しました。ライトを低い位置で使用し、カーブした角度を利用する、という風に照明をつけ、ドライバーにとって快適な照明でぎらつきや反射も無い、歩行者や駐車した車がくっきり見えるようにしようとしました。

またポール・へニングセンは詩人、劇作家、ジャーナリスト、そして雑誌「クリティカルレビュー」の編集者としても知られています。またルイス・ポールセン社の広報誌「NYT」 の最初の編集者でもあります。この 「NYT」 誌は、当時のルイス・ポールセン社CEO、ソーフス・カストラップ・オルセンがデンマークの新聞紙からライターとしての活動の場を追われたヘニングセンに、プレゼントとして提供したものです。彼の政治的、文化的意見は当時、かなり急進的なものでした。

生涯で200を超える照明をデザインしたヘニングセン。彼の当時の作品と共に新しい作品がコペンハーゲンのキャビネットメーカーズギルド展示会に毎年飾られます。彼が意図したのは単なる照明器具のバリエーションではなく,照らし出される人や物、あるいは空間を理想的に見せるための「良質な光」の追求にほかならなりません。光の色、グレア、陰影といったような照明の基本事項をキーワードとしたヘニングセンの光に関する考察は、今日の照明文化においてもなお、重要な意義を持ち続けており、それゆえ彼は「近代照明の父」とも呼ばれています。

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