デザイナーアーカイブ[家具について]

Eero Saarinen(エーロ・サーリネン)

Eero Saarinen(エーロ・サーリネン)

1910-1961

エーロ・サーリネンは戦後のデザイン活動に非常に影響を及ぼしました。建築家でありクランブルック美術アカデミーの創設者の1人であるエリエル・サーリネンの息子である。

サーリネンはフィンランド生まれ。1923年に両親と共にアメリカへ移住し、父の教えるクランブルック美術アカデミーで学びます。1929年に彫刻を学ぶためパリへ留学。イエール大学の建築学科入学のために1930年に帰国し、1934年に卒業。卒業後はノーマン・ベル・ゲデスの元で家具デザイナーとして働きますが、1937年に退社。父親と設計事務所「サーリネン&サーリネン」を興し、ミシガン州アナーバーにて父親の設計の仕事を手伝います。この間クランブルック美術アカデミーでデザインの教鞭もとっていました。そこで同校で学ぶチャールズ・イームズと知り合い、家具を共同開発し、1940年にニューヨーク近代美術館が主催する「オーガニックデザイン家具コンペ」に出品します。カーブの利いた成形合板製のチェア数種、ソファ、キャビネット、そして机を出品し6部門中2部門で優勝。椅子の背面、座面、肘掛けを継ぎ目無しに繋いだオーガニックチェアで一躍脚光を浴びます。40年代前半、サーリネンはイームズに協力し成型合板の三次元成形の研究をしていました。まるで現代彫刻のような人間の体型を再現した添え木を米国海軍のために製作します。それと同じ製造過程を家具にも適用させたわけですが、サーリネンはノール社と、イームズはハーマン・ミラー社と契約したので彼らの共同作業はその後解消されました。

40年代後半、サーリネンは数々の椅子をデザインします。1946年の「グラスホッパーチェア」は柔らかな曲線に曲げられた成型合板にウレタンと布を張ったリビングチェア。そして1948年の「ウームチェア」では再びカンバセーションチェアの形に回帰し、より心地よいデザインに改良し、オットマンとソファを追加してシリーズ化しました。ウームチェアはどんな向きでも座れ、包まれるように出来ています。ウームは子宮という意味で、まるで女性の子宮の中にいるような安らぎを得られることから命名されました。1947年、ミズーリ州セントルイスに建設される国立公園「ジェファーソンナショナル エクスパンション メモリアル」の記念碑デザインコンペで優勝します。その記念碑「ゲートウェイアーチ」は高さ、幅ともに192mと巨大で建設は難航しましたが1965年に完成、セントルイスのシンボルとして有名になりました。また、ミシガンのゼネラルモーターズの技術センターやワシントンのダレス空港、そしてジョン・F・ケネディ国際空港のTWAターミナルなど美しい曲面を描く建築物を多くデザインし一世を風靡します。

サーリネンはオフィス用チェアもいくつかデザインし、ノール社より発売されています。1956年、一本脚の家具のシリーズをデザインしています。彼の言うところの「脚のスラム街」というスタイルを撤廃し、不要なものが何もないスタイルを作ろうとしたのです。その作品、チューリップチェアは形がチューリップに似ていることから名付けられています。ガラス繊維強化プラスチックとアルミニウムの2つの素材から作られていたのですが、着色を脚に施しあたかも1つの素材で出来ているように見せようと工夫しています。

サーリネンは51歳という若さで、数々の未完成プロジェクトを残したままこの世を去りました。直線が非常に少ないモダニズムの新しい型を確立したミッドセンチュリーを代表するデザイナーの一人です。

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