デザイナーアーカイブ[家具について]

Donald Deskey(ドナルド・デスキー)

Donald Deskey(ドナルド・デスキー)

1894-1989

ドナルド・デスキーは米国ミネソタ州生まれ、ヨーロピアンアールデコに刺激を受け「合理的モダン」として知られるそのスタイルの確立に貢献しました。カルフォルニア大学で建築学を学んでいたデスキーでしたが、1919年第一次世界大戦のため退学させられてしまいます。彼は射撃手として訓練しましたが実戦することはなく、アメリカに留まっていたので任務が終わると広告代理店で働きはじめました。1923年彼はパリに移り、そこで結婚をし、絵画を学びながらグラフィックデザイナーとして仕事をしていました。1925年のパリ展が彼に自分の会社を興す気持ちを動かし、1926年にニューヨークへ移りました。

デスキーは1930年から40年にかけて家具デザイナー、インテリアデザイナー、グラフィックデザイナー、そして産業デザイナーといったいろいろな顔を持つようになりました。ピアノ、掛け時計、ラジオ、スロットマシンそして産業積層板と多岐にわたる物を製作しました。ニューヨークに落ち着いてからはデザインコンサルティング会社を立ち上げます。その後まもなくしてフィリップ・ヴォルマーとパートナーを組み、デスキー・ヴォルマーという社名に変更。家具やテキスタイルデザインに特化した会社となりました。この時デスキーはいくつかの家具を製作しましたが、その多くは特別な場所やお客様向けのものでした。彼の有名な業績はロックフェラー・マンハッタンアパートメントそして、大規模なものでは 1932-33年に施工されましたラジオシティ・ミュージックホールのインテリアなどです。デスキーはコンペに勝ってこのデザインの仕事をするチャンスを得たのですが、その時代でもっとも優雅な劇場にするという約束を宣言していました。彼の魅力的なデコ調インテリアが完璧だと証明されました。その証に、無名だった彼はオープンの翌日には人々を魅了してやまないデザイナーとなっていました。その他にも彼は5番街のデパートのウィンドーディスプレーをリノリウムやコルク、ベークライトで作ったスクリーンを使ってたくさんのデザインをしました。

彼はクローム、アルミニウム、そしてベークライトというモダン美学に彼の業績を知らしめた素材に熱心に取り組みました。デスキーは1937年パリ展にアワード受賞作品のほか、1939年ニューヨーク世界市での作品も展示しました。

デスキーは40年代に入るとグラフィックデザインに着目し、ドナルド・デスキー・アソシエーツという会社を設立しました。P&Gといった大顧客とも取引をし、1950年にはクレスト歯磨き粉のパッケージデザインをしました。それは今日も使われています。

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