デザイナーアーカイブ[家具について]

Bruno Mathsson(ブルーノ・マットソン)

Bruno Mathsson(ブルーノ・マットソン)

1907-1988

スウェーデンデザイナー、ブルーノ・マットソンは第二次大戦前後のスウェーデンスタイルを定義するのに貢献するような家具と建築物を作りました。スウェーデン伝統工芸から手がかりをつかみ、有機的でさらに擬人的な造型を探求しました。彼の建築物は大規模で斬新なガラスの壁、そして環境と共存する美学で知られています。彼は近代主義が新技術や良質の家具の製造、そしてデザインと製造をさらに発達させるために大切な方法だと思っていました。マットソンもコーア・クリントのようにそれぞれの機能の高い作品を作るためにモダン家具の構造を学びました。「快適な椅子は“芸術”であってはならない。だが椅子を作るにはそのような芸術性が必要である。しかしまた、その精神で作られた座席が芸術になってはならない」と説いています。

彼の父親カール・マットソンは家具職人の家系の5代目として生まれました。デザイナーとして鍛えられ、故郷ベルナモで家具ビジネスを営み、のちにブルーノのデザインの多くを生産するに至ります。その父のもと、幼き頃から木や家具作りについてブルーノは教わります。そして1929年、ヨーテボリのルスカ美術工芸博物館を訪れキュレーターのグスタフ・ムンテと出会い、雑誌や図書の貸し出しを依頼。翌月ダンボールいっぱいに送られて来た書籍から独学でデザインを学びました。

1931年、1930年にストックホルムフェアでみた作品に影響を受けて名作を製造しました。ベルナモの病院に依頼されデザインされたこの椅子は病院のスタッフに「グラスホッパー(Grasshopper)」と名付けられました。編んだ織物は彼の作る椅子に多く使われる素材で、それがフレーム全部に伸ばされ、イナゴの足を思わせる曲線に象られた弓形の木片で肘掛と脚が出来ていました。この椅子に関してのおもしろい噂として、この椅子を病院で使用しようとしたところあまりにも病院に不釣り合いので、ブルーノが有名になるまで人目に付かないところに隠したとか。

1934年の「エヴァ(Eva)」チェアはスウェディッシュモダンの代表作となりました。この作品はアルウ゛ァ・アールトの作品に応え「グラスホッパーチェア」を洗練させたタイプで、織物椅子、ソファとオットマンにもしっかりと関連するように発展させました。彼は1942年に「ミランダ(Miranda)アームチェア」という「グラスホッパー」を劇的な波状の形状にして戻してきました。このシリーズのデザインの多くは「ミナ」とか「ペルニラ」といった女性の名前を付けられていて、そうすることで椅子を家庭にとってより快適な道具にしようという試みでした。彼は作品の機能を向上させようと書架のような装飾も取り付けました。

ヨーテボリのルスカ美術工芸博物館のキュレーター、グスタフ・ムンテの呼びかけで彼の作品は1936年同館での個展に開催。彼の名前はより多くの人々に知られることになり、彼がスウェーデンを代表するデザイナーであると認知されました。その翌年のパリ世界博の優秀賞受賞作「パリ」で国際的名声を築き始めました。彼の才能はここで世界中に知れ渡ります。1939年にはニューヨーク近代美術館のカウフマンが彼の作品を同館でも展示すると決め、ニューヨークの世界展やサンフランシスコのゴールデンゲート展でも展示がされました。

1945年から58年は建築に多くの力を注いだ。40年代にアメリカを訪れたときにカウフマンの計らいで出会わせてもらったアメリカのデザイナー達の影響が大きかったという。1958年ピート・ヘインと家具デザインと新しい技術開発で共作もしました。60年代にはスチールパイプ家具の研究製作を始め、布張りの「ジェットソン(Jetson)」チェアと革張りの「カーリン(Karin)」 チェアをデザインしました。1955年彼はストックホルムでグレガー・パーソン賞を受賞し、1981年にはスウェーデン政府よりプロフェッサーの称号を受けています。

私たちに身近な彼の作品は「MAシリーズ」がある。1974年に初めて日本を訪れ、畳と日本人の体型にあう椅子を天童木工とともに開発しています。脚部に畳を傷めないよう「畳ずり」をつけるなど、北欧の繊細な感性が感じられる作品です。発売から40年後の今も愛される名作となっています。

閉じる